夜空の鳥の日記

時にそこはかとなく、時につらつらと

大人の対応

遊びに行きたいですって? この家に?

はあ。いや、別にいいんですよ。私が嫌なのは、「今日はお休みですか?(*^_^*)」って言われることなんです。

こう言われるたび、心がかき乱されてたまらないんです。何で、家にいる=お休みっていう方程式が当たり前のように成立しているのか。お休みじゃなければ平日の昼間っから家にいちゃいけないのか。

この一言を封印してくれれば歓迎するのに。もし聞いてくるようなら、「あなたのためにお休みにしたのよ(#^^#)」と笑顔で返すしかないですね。

愛すべきおじさんシバラク

魔神英雄伝ワタル』を急に思い出した。なぜだろうな。

昔好きだったアニメの一つ。虎王、海火子、かっこよかったね。あとツッパリーとスケバーン(笑) そして忘れてはならないのが、シバラク先生。それまでおじさんキャラには全く興味がなかったのに、なかなかどうして魅力を感じてしまった。ヒミコとのかけ合いはテンポよく、おどけながらもさり気なくいいこと言ったりしたね。顔が急にイケメンになるのがおもしろくて好きだった。

シバラク先生。(イラスト:私)

『ワタル』は『2』の途中から見なくなっちゃった。かっこいいとか言いながら海火子の正体をよく分かってないし。ツッパリーとスケバーンが好きだったということは、結構最後の方まで見てたはずなんだけど、最終回まで見た記憶がない。おそらく、シバラクが敵になっちゃったからだと思う。見るのやめちゃうくらいショックだったんだと思う。OPが『Fight!』に変わった時、シバラクの姿がなかった気がするの。シバラクがいなくなって初めて、彼が『ワタル』にいかに欠かせない存在だったか気づいたんだね。シバラクのいない『ワタル』がこんなに寂しいなんて、って。

それにしても、戦神丸を呼ぶ手段が公衆電話って! 時代を感じずにはいられない。今ならスマホですぐ呼べるよね…なんて思ってたら、『ワタル』はここ数年もアニメ出てたみたいで。知らなんだ。となるとシバラク先生、戦ちゃん呼ぶのにスマホ使ってたりするのかな?

平成26年2月、雪の中助けてくれた人。

平成26年(2014年)2月、東京、夜、大雪。

電車が動かず、タクシー乗り場は大行列。多くの帰宅難民を出したあの雪の日の夜、私も普段の帰宅手段を失って、なす術なくタクシー待ちの列に並んでいた。歩いて家に帰るにはあまりにも遠かったのだ。

タクシー待ちの行列はいっかな進まない。別の方法を考えるべき? でもどうしたらいいんだろうと途方に暮れていたら、私のすぐ前に並んでいた人が声を掛けてきた。

「全然進まないですね」

その人は勿論知らない人。タクシー待ちの列でたまたま前後に並んだだけ。でも私達は、まるで以前から見知っていたかのように、自然と会話をし始めていた。

その際、互いの目的地についても、自然と口にしていた。見ず知らずの人に自分の帰宅先の駅なんて、普段なら簡単に答えないだろう。でもその時は違った。誰もが困り果てていた。きっと、あの日突然帰れなくなった、行くべき場所へ行けなくなった皆が。

帰りたい。その意思を示すため、誰もが自分の帰る場所をはばかることなく口にしていたと思う。

雪は降り続けていた。その人が、

「ちょっと傘買ってきます」

と、行列を離れていった。しばらくして戻ってきたその人は、手に持っていたビニール傘を私に差し出した。私の分の傘も買ってくれたのだ。更に、

「地下鉄なら今も動いてる路線があるから、それを乗り継いていけば、あなたの家まで歩ける距離にある駅で降りられるんじゃないか」

と、運行中の路線を調べてくれたというのだ。

確かにその方法なら、だいぶ歩くことにはなるが、家まで歩けなくもない。かすかな希望を見出した私は、その人が調べてくれた帰路で帰る(というか、何とか家まで近づくという表現の方がいい)ことを決めた。

その結果、夜が明けないうちに何とか無事に家に帰ることが出来たのだ。

困った時はお互い様というけれど…。こんな時は、遠くの家族や友人より近くの他人に救われる。いくら親しい人でも、物理的に遠く離れていては助けるなんて不可能だからだ。

私は、あの大雪の中で、見ず知らずのその人に助けてもらってばかりだった。傘を買ってくれたり、帰路を調べてくれたり…。何より、突然帰れなくなって、不安でたまらなかった時に、話をしてくれた。

人は、知らない人にここまで親切にできるものなのか。

私はその人に対し何も出来なかったけれど、その人は見返りなど求めてはいなかったと思う。あの優しさは、偽りのないものだったと考えていい。

あれから10年。他人の心も捨てたものではないと思わせてくれる出来事だった。折しも、人と会うことはもうたくさんなのに…いや、そんな今だからこそ、思い出させてくれたのか。

あの日のあの人は、今頃どうしているだろうか? あれから、無事に帰れたのだろうか?

もちろん名前も知らないし、今となっては顔も声も覚えていない。その人も私のことなど忘れているかも知れない。

それでも、もし、またどこかで偶然会うことがあるならば、ただ一言伝えたい。

「ありがとう」と。

なくした時間を考える

真・三國無双の中でも本当に好きなキャラクターはいました。

〜6は徐晃、7やアプリでは李典と楽進、8と8Empiresではイケメンのモブ。

特に李典、楽進はアクキーやCDなどを手に入れるため金も時間も自分の持つ全てを惜しまなかったくらいです。英傑伝なんて、この二人が出てくるからというだけの理由で購入、プレイしましたもの。

楽進さん。(イラスト:私)

でも、そんなに思い入れが強かったにもかかわらず、数年経ったらそんな愛情も擦り減ってしまいました。(※嫌いになったわけではない。)今はスカイリムが好きなんですが、スカイリムも同じように、数年過ぎればこの熱い思いも冷めてしまうのでしょうか。そうなるのは寂しいな。

情熱は燃え散っても、ただ一つ言えるのは、彼らを好きで、彼らのために時間やお金を使ったことは後悔していないということ。彼らのいるゲームやグッズや歌と共に過ごした日々は、私の人生で楽しかった時間の一つなのです。彼らといた時、私は確かに幸せな気持ちだったのだから。

董白はなぜ許せるのか

董白とは、真・三國無双8というゲームに登場する女の子のことです。

董卓の孫で、非常に愛らしい顔立ちをしていますが、性格はわがままで残酷。人に対し「生意気」という言葉を多く使用しますが、誰よりも生意気なのは彼女自身ではないか、そんな気がしなくもありません。実際、彼女の言動、行動は目に余るものがあるかも知れません。常に上から目線で、誰に対しても歯に衣着せぬうえ、追加DLCの董白シナリオはトンデモな展開でした。(このゲームは大勢の敵を一度にまとめてなぎ倒すことに爽快感を得られるのが特徴なので、ストーリーなんて二の次なのかも知れませんが)

あくまで私の意見ですが、正直、このシリーズにおいて振る舞いが目に余るのは、董白に限った話ではありません。見ていておもしろくない気分にさせられるキャラクターは、一人や二人どころではなかったからです。そのようなキャラクター達は顔を見るのも嫌になってしまい、真・三國無双8Empiresは無双武将抜きの汎用武将とエディットしか登場させないシナリオしか遊ばなくなりました。(モブ無双は快適でめちゃくちゃ楽しかった、それはまた別の話)しかし、董白だけは見ていても腹が立つこともなく、むしろ彼女が何をしようとも許せてしまったのです。なぜでしょうか。

董白を許せる理由として考えるのは、「良くも悪くも裏表がない」こと。董白は相手が誰であろうと言いたいことをハッキリと言い、いい子ちゃんぶったところも、媚びた姿勢もない。生意気な態度がかえって気持ちいいくらいに見えます。

私は董白のことを考える時に、どうしても貂蝉と比較してしまうのですが、それは董白の貂蝉に対する敵愾心の強さ、あと私が個人的に「貂蝉は離間の計を仕掛ける立場とはいえ、本心が全く見えなくて怖い」と思っていることが原因でしょう。

董白を見ていて気持ちいいと感じるのは、「思わず真似したくなるような言い回し」からも来ていると考えます。言い方は少々キツいところも見受けられますが、彼女は言いたいことをハッキリと言います。畏れを知らず堂々としている姿には、憧れに近いものを禁じ得ません。真似したくなるのは、私も彼女のように振る舞えたらいいのにと望んでいるからではないでしょうか。

以前ここの日記で、真・三國無双呂布にイライラしたと書いたことがあります。呂布の自分勝手な行動が、私を退職させた上司にそっくりだったからと。その呂布に対する董白の振る舞いに、知らず知らず私自身を重ねていたのかも知れません。だから「一人の女の子が最強の鬼神に復讐、そして本当に完膚無きまでに負かす」なんて荒唐無稽な展開も、見ていて良い気分になっていたのだと思います。

そう、良い気分。董白は私を良い気分にさせるのです。それは、好きなキャラクターを見ることや好きなキャラクターと一緒にいること、好きなキャラクターが喋ってくれることなどに思わず笑みがこぼれるのとは違う感覚です。董白のことは好きですが、三國無双で董白が一番好き! というわけでもなく、恋をするのとも異なる感覚です。

この感覚は何なのか。はたしてこれが董白を許せる理由なのか。

董白は出会うものを次々と叩きのめし、退かせたり手下に加えたりします。そして最後には、彼女に屈辱を与えておきながら彼女を歯牙にもかけなかった者達を屈服させ、跪かせます。その中には彼女の祖父の仇や、彼女から離れてあろうことかその仇の下についたかつての側仕えの者など、憎くてたまらなかった相手もいます。

それはまさに、他でもないこの私が、心の中でひそかに思い描いていた光景そのものでした。

今まで私にひどいことをした人達に後悔させてやりたい、頭下げさせてやりたいと。

董白は、私の願望を体現していたのです。それも、決して叶いっこない願望を。

なぜ董白は許せるのか。いいえ、許せるどころの話じゃなかったんです。

董白の存在自体が、私のカタルシスだったのです。

董白。(イラスト:私)

『山月記』

中島敦の『山月記』は今まで読んだ本で最も好きな作品。

李徴の姿は私そのものだ。目指すものがありながらそれを切磋琢磨しなかったこと、自尊心を傷つけられるのをいさぎよしとしなかったこと、そして過去を空費したこと。人前に出られなくなった、人と共に生きて行けなくなった姿を「虎と化した」という比喩でもって描いているような気がしてならない。

山月記』との出会いは高校の現代文の教科書。初めて読んだ時から李徴の無念さややるせなさはひしひしと伝わってきて、どうにも他人事には思えなかった。でもまさか本当に自分が李徴と同じ気持ちになるなんて、思わなんだ。

その人は本当に忙しいのか

スカイリムでは「忙しい」という言葉をよく耳にする。私はそれまで、「忙しい」という言葉は好きではなかった。

だがこれは、「私にはやることが沢山あって時間がいくつあっても足りない。息つく暇もない」というより、「私にはお前なんかに使う時間は無い」というニュアンスの方が強く含まれているのではないかと勝手に考えてしまった。

その人の実際にやることの有無や多さ少なさはさほど重要じゃなくて、目の前の面倒な人にとっとと消えてほしくて使っているのかも知れないと。

ことスカイリムは面倒をなるべく避けたがる傾向が強いように感じられるし。

そんなふうに掘り下げると、この言葉は好きじゃなかったという当初の気持ちが薄れていく。むしろ自分も使ってみたくなる言葉だ。