夜空の鳥の日記

時にそこはかとなく、時につらつらと

奪われて失ったもの。自らの手で遠ざけて失くしたもの。初めから持つことすら許されなかったもの。資格は画餅に帰し、キャリアも人望もなく、夢も希望も展望も皆無。無い無い尽くしの人生で、初めてガンプラを作りました。

天覇曹操ウイングガンダム

純粋に楽しいとかカッコイイとか感じたり、このような素敵なものを誰もが作れてしまうなんて凄い技術だなと感心したり、そのような心はこの胸にもまだ残っているようです。流石にこれからを生きる気力までは湧いてこなかったけれど、たとえ一瞬でも楽しい気持ちになれるなら、それは幸せな記憶として心に刻まれることでしょう。

有職者が全て善で、無職者は悉く悪か

お店の人に覚えられたら、「あ、もうこのお店行けない」と思ってしまう。理由は簡単、「今日お休み?」という会話になるのがこわいから。スーパーやドラッグストアの店員さんのように、いつも行って何度もレジしてもらってるから、互いに見知ってはいるけど雑談には到らない…それくらいならいいが、メガネ屋とか床屋とか、商談モード以外に雑談モードが入ってくるお店だと、会話が難しくなってしまった。見知った人に偶然会って雑談モードに入ってしまった時も、身内と久しぶりに会った時さえも同様。

どうしてそのような会話の時、多くの人が「今日お休み?」と聞きたがるのだろう。それがあなたに何の関係があるのだろう。それとも、これがこの社会の挨拶なのだろうか。本当のことを知ったら、あなたはどんな顔をするんだろう。私は知っているよ。失業した人、働いていない人に対する人々の顔を。憐れむ顔、さげすむ顔、戸惑う顔、しらける顔。いずれにしても、空気が重くなるような表情をされることは間違いない。そして、まるでこちらが大犯罪を犯した極悪人みたいに、後ろめたい気持ちにさせられるのだ。私だって好きで仕事を失ったわけじゃない。このままじゃあまりにも恥ずかしいしかっこ悪いと慌てて就いた職は、どれも長続きしなかった。就職は焦って、急かされて決めるものじゃないと、うんざりするほど分かっているのにな。

スカイリム語録⑨

「ノルドは感謝を知らない。だが、それが何だ? 俺だって奴らに感謝なんかしていない」

ウィンドヘルム港にいるネートレナザの台詞。スカイリムはチョイ役の言葉も胸に刺さり、ぼんやり生きている怠惰な心に物事を真剣に考えるきっかけを与えてくれます。

人は感謝することを忘れると、互いの行動に無関心になるんだと思います。たとえ誰かに何かをしてもらっても(それが自分にとって大いに喜ばしいことでも)、「これくらいやって当然でしょ」という傲岸不遜で自分本位な気持ちばかりが目立つようになります。日々の営みは人それぞれ様々ですが、何をやろうともそれは褒められることでも労われることでもなくて、「そもそもやって当たり前」と考えてしまったら。そうなっては「あいつは感謝をしない。ならば私も感謝しない」という悪循環に陥るのも無理はないでしょう。

我々はいつもどこかで誰かに助けられながら生きています。直接的であれ間接的であれ、衣食住が保障された平穏無事な生活が送れるのは、それを支えてくれる多くの存在があったればこそ。それを忘れてはいけないのではないか。

スカイリム語録⑧

「とにかく、やり遂げりゃいいんだよ。」

盗賊ギルドのヴェックスから仕事を受けると、こんな言葉で送り出してくれる時があります。

さて、私にはやらなければならないことがあり、今はその一つのことしか考えられない状態です。加えて誰も助けてはくれませんが、そんなものはあてにならないので、初めからあてになんかしません。信頼できるのは自分だけです。自分が知り得たわずかな情報と乏しい経験だけを頼りに、手探りで進むしかないんです。

そこでふと思いました。もしかしてこれは、『初めてプレイするゲームを攻略情報なしでクリアを目指すのと同じようなもの』ではないかと。まさに先日この日記で書いたばかりのことではないか。そう考えたら少しは気が楽に…なれたらよかったのに。せいぜい神経がすり減る速度が緩和されるのが関の山でした。そして考え倦ねた結果このヴェックスの台詞に辿り着いた次第です。

幸せな記憶②

私はゲームが好きです。お気に入りの作品は長い時間を費やして何度もくり返し遊び続けます。2周目以降は勝手がもう分かっているのですんなりクリアできてしまいますが、初プレイはだいたいどのゲームも散々です。攻略は見たくない、自力でクリアしたい頑固者だから、試行錯誤もいいところでした。

でも、そんな這う這うの体でクリアしたことも今では良い思い出です。効率よくプレイするのも思い通りにうまくいって気持ちいいけれど、何も分からず文字通り手探り状態で辛くも乗り切った、そんなプレイもおもしろいです。後者は何よりクリア時の達成感がひしひしと感じられ、その喜びが思わず声にも出ます。以前もこの日記で書きましたが、私はその瞬間が好きなのです。ゲームはただ楽しいだけにとどまらず、達成感も得られるのが良いところだと思っています。

忘却と想起

文章を書くようになってから、漢字が書けなくなっていることに気づく。今これを書いている最中も辞書が手放せない。これは一大事。漢字は好きだし得意なつもりだったけれど、自分がそう思い込んでいただけだったのかも知れない。

人生の出来事も、一部の記憶は鮮明に残っているのに(トイレの限界とか)、あとはきれいさっぱり忘れている。忘れちゃいけないことを忘れて、忘れてもいいことをいつまでも覚えていて根に持っている。

思い出を全て覚えておくことが出来ないのなら、記憶は消えていくものだというのなら、どうして嫌な記憶を忘れてしまえないのだろう。おびただしい憎しみや悔恨で支配されている心を解放したいのに、それは許されないのだろうか。

検索しても答えが見つかるとは限らない

インターネットが生活の一部と言ってもいい現代、分からないことや気になることがあると、何でもヤフーでググってきたものでした。ですが昨今は、自分にとって本当に必要な情報をネットで検索して探し出すことが難しくなったように感じます。

検索結果の上位に来るのは、決まって某知恵袋など個々人の様々な意見が飛び交うものばかり。私にとっては参考程度どころか気休めにもならない、取るに足りない言葉の羅列ばかりであります。
また、一つの情報について幾人もの人が記事を書いています。たとえそれらが正しかろうと誤っていようと、執筆者の見解、着眼点はそれぞれ違うので、同じ情報についての内容でも書かれていることまで同じとは言えません。それらの記事から自分に必要な答えや情報を見定めるために比較したりフィルターにかけたりするには、今やあまりにも量が膨大で気が遠くなります。
サイト、アプリ◯選! のように、検索した言葉が含まれている(或いは無理やり含ませた)サイトやアプリを紹介しているだけで、欲しい情報にいつまで経っても辿り着けない場合も多々あります。そもそも自分の求める答えや情報はネット上に存在していない、なんてことだってあるでしょう。

本気で質の良い情報が欲しかったら、お金など対価を払うことも厭わない覚悟がそろそろ必要なのかも知れません。情報が無償で手に入るなんて、そもそも虫がよすぎる話だったのです。