夜空の鳥の日記

時にそこはかとなく、時につらつらと

心が乱れる

仕事だろうと家事だろうと何だろうと、他の人が手伝いに入ってくると、私は助かるどころが大変混乱してしまうので、正直手伝いはいらないと思っている。以前この日記でも書いたように、自分の中で順序を決めて、その通りに進めれば、どんなこともやり遂げることができると私は考えているからだ。そこを中途半端に手を出されたら、順序も心の均衡も何もかもが崩れて、果たせるはずだった目的も果たせなくなってしまうのだ。

手を出してくるなら、初めから全てあなたがやればいいと思ってしまう。あるいは初めから仕事も役割も明確に分担し、「私はAを、あなたはBをやる」とするか。

こんな考えを持っているから、仕事も人との関わりもうまく出来ないことが多かったのだろう。けれども、その人のすることをじっと見守っていた方が、物事がうまくいく場合もあるのではないか。どんなにもどかしく見えても、下手に手出しされることで秩序が砕け散ることだってあるし、その人の成長を妨げることにだってなりかねないのだ。

スカイリム語録⑦

スカイリムは心のオアシス。

「あなたが心配するような事じゃないわ」

ホワイトランのイソルダの台詞。どうして市場にと訊かれ、食材を買いに来たと答えこの言葉につながる。「あなたには関係ない」というニュアンスだとしたら、もしかしたら万能ワードかも知れない。言い方もやわらかめだし、答えにくいことを訊かれてもこんなふうに応じればいいのではないだろうか。

イソルダ(イラスト:私)

「誰にも煩わされずに仕事をして、わずかな余暇を楽しむ、それだけでいいんだ」

モーサルのヨルゲンの台詞。本当にそう思う。望むのはただそれだけなのに、どうしてそっとしておいてくれないんだろう。また、ヨルゲンは自分の管轄の工場が大切で、他のことはどうでもいいと言うが、その考え方だってちっとも悪くない。まず自分がまともに生きられなければ、他のことなんて考えられっこないもの。

幸せな記憶①

 ある女性に恋をした。彼女も僕に対して憎からず想ってくれているようだ。しかし彼女には他に好きな人がいるみたいで…。

ツルゲーネフの『初恋』。岩波文庫の表紙で思いっきりネタバレしている。少なくとも私はネタバレだと感じた。初めて読んだのが青空文庫で本当に良かった。

ネタバレは私の苦手なものの一つ。映画や小説の展開や結末、ゲームの謎解きなどだ。特にゲームは、進め方が全然分からなくなっても、ネットで調べるなんてことは絶対したくない。それをしたら負けだと思ってしまう。実際、どこの誰が書いたか分からない攻略法を見ながらプレイしたゲームは、おもしろくも何ともなかったからだ。情報源が明確な攻略本が出てるなら買ってもいいと思うけど、それでも悔しい気持ちは拭えない。やはり自分の力で答えに辿り着けるから楽しいのだ。何日も足止めされた謎を自力で解いて先に進めるようになった時の嬉しさや、キャラクターに隠された秘密を知った時の驚きときたら! 私は、あの瞬間の喜びを味わいたいのだ。それは思い出せば笑顔にさせてくれる記憶として、ずっと心に残るはずだから。

スカイリム語録⑥

現実生活では従者のような心強い味方は側にいませんが、スカイリム(とソルスセイム)の人々の舌が紡ぐスゥームのごとき言葉は、つらく厳しい現実を生き抜くための大いなる助けとなりましょう。

「おっと、ほめ言葉か、感謝の表れが欲しかったのか? そんなものは時間の無駄だ。弱く愚かな者が求めるものだ」

テル・ミスリンのネロスの台詞。求める相手を間違えないこと。そういう言葉をかけて欲しかったら、そういう言葉をかけてくれる人やサービスのところへ行くのがいい。言ってくれない人に言ってもらおうとしたって無駄。ケーキ屋さんに生肉を売ってくれと頼むようなもの。

「お体に気をつけて。そして覚えていて下さい。この世はあなたの血を流そうとする人達で出来ている…」

ソリチュードの王宮魔術師シビル・ステントールの台詞。さらりとこわいことを言う。でもこれも本当のこと。相手に悪意があろうとなかろうと関係ありません。外へ出るたび、私はぎりぎりとえぐられます。傷が癒えないうちに再びナイフを突き立てられるから、いつまで経ってもよくならないんです。

もっと大らかな心で

十年前に続き、このたびの雪でも思うことが色々と。

雪の影響で物流に遅延が生じたことで、これからは急ぎの物は通販で買わないと決めた。本当にすぐ必要な物なら、実店舗で可能な限り調達する。通販を利用する際は余裕を持つ。届くはずの物や手紙などがある時は余裕を持って待つ。それこそ届くのは2〜3週間先になってもいいや、1週間で届けば御の字だ、くらいの気持ちで。物が配達されるのは届けてくれる人があったればこそ。一両日で届くのが当たり前と思ってはいけないのだ。

あとは、いざという時に慌てないために、今から備えてしまう。なくて困るより、あるけど使わなかったぁ〜の方がずっといい。

それから、自分にとって苦手だけどやらなきゃならないことでも、ええいままよと自分の手でやってみれば案外失敗しないこともあると知った。今回がたまたま、自分でやっても問題なかったパターンってだけだったかも知れないけど。自分でやって結局失敗する場合もあれば、成功とまでは言い切れないが失敗しない場合もあると。

そして、ああどうすればいい? と思うことも、自分が考えるほど焦る必要もなかったということ。自分一人がこせこせしても仕方がない。なるようになる。なるようにしかならないのだ。

好きだから殺す

「好きだから殺す」という心理について、自分なりに考えたことがある。

誰かを好きになると、その人のことを考えるだけで幸せな気持ちになれる。それによって心が穏やかになって、表情も明るくなり、周りの人に良い印象を与えられるようになる。でも同時に、心が狭くなってしまう。その好きな人を、他の誰にも渡したくないと思うからだ。その人が自分だけのものにならないと、気が済まなくなってしまうのだ。他人にはどんどん優しくなれると同時に、誰かがその愛しい人に近づくことを許せなくなってしまう。一途な愛というきれいな感情と、狂しい嫉妬にまみれたドス黒い感情が共存するのだ。

好きな人をただただ愛し続けることが出来れば…それは素敵なこと。やり方を誤らなければ。自分の幸せだけでなく、自分の愛する人の幸せまで願えるようになる、そんな愛し方が理想だと私は考える。だが実際は理想に反し、望まぬ方向へエスカレートしていく可能性が否定できない。愛しのあの人に近づく者は皆消す。ここまでは考えてしまうことがあるにしても、時にその先まで行っちゃうかも知れないことがある。

あなたが私と一緒にいられないなら…、あなたが他の人とともに生きるというのなら…、私はあなたを殺す、って。「好きなのに殺す」のではなく、「好きだから殺す」のだ。好きな人が他の者の手に渡るくらいなら、この手でその好きな人を亡き者にする。そうすれば、好きな、大好きなその人はもうどこにも行かないからって。何てことだ。一番大切で、誰よりも愛しくて、何よりも守り抜きたいその人を殺そうとするんだもの。その人がいなくなったら、それこそ私自身が生きていられなくなるのに? とんでもない矛盾を引き起こすのだ。ここまで来ると、もうどうしようもなくなるだろう。

「あなたが一緒にいてくれるだけで幸せ」

ずっとそんな気持ちでいられたらいいのに。こう感じる時が、最も幸せな瞬間だと思うから。

返事をする

 自分のことを呼ばれたら、ちゃんと返事をしなさい。それも「うん」じゃなくて「はい」とはっきり言いなさい。

昔、祖母に叱られた時の言葉。細かいことまでいちいちうるさいわと、当時は反発したくなったものだが、思い返せば私の人生で、「呼ばれたら返事をしろ」と明確に教えてくれたのはこの祖母だけだったんじゃないか。

かつて、一緒に仕事をするのに苦痛でならなかった人がいた。理由は簡単、そいつは私と話す時に何の反応も示さなかったからだ。「私は今あなたに話しています」という意志をはっきりさせるため、私は相手の名前を呼んで話をするようにしていた。しかしこいつ、自分の名前を呼ばれても何も言わない。こちらに一瞥をくれはするから聞こえていると思うんだけど。話の最中もうんともすんとも言わないので、私の話を本当に聞いているのか不安にさせられた。いつもこんな対応をされるので、気力を大いに削がれて疲労甚だしく、こいつと働くのが次第に苦痛を通り越して拷問に感じるようになった。話すべきことも話せなくなって、仕事が悪循環に陥りつつあるのが火を見るより明らかだった。更に気分が悪いことに、ろくに返事もしないのに目だけはギョロつかせて、こちらを睨むように見る。先述の一瞥もこのような目つきだからたまらない。こんな態度を常にとられて、どうしてすすんで話し掛けようと思えるだろうか。

目は口ほどに物を言うともいうけれど…。やはりそれだけじゃ伝わらないものもあるだろうに。暗黙の了解? いいえ、やって欲しいことがあるなら言われなきゃ分からない。こちとらエスパーじゃない。言葉で伝えないと、すれ違いや誤解を招くおそれが多くなると思うんだけど。私が返事するのに値しないとでもいうのか。それとも、そもそも返事の仕方が分からないとでも。

つらつらと並べ立てたが、とにかくこれ以来、私は自分が呼ばれたらちゃんと「はい」と返事をするようにしている。自分がされて嫌なことは、人にもしたくないからだ。そして恐ろしいのは、もし祖母が教えてくれなかったら、私も返事もろくに出来ないような人間になっていたかも知れないということ。ばあちゃんには感謝しなければならないだろう。