ごみを出しに行く、回覧板を持って行く、そのような用事は専ら早朝にするようになりました。理由は簡単、誰にも会いたくないし、誰かに自分の姿を見られるのも嫌だからです。同じ理由で、夏の草むしりも朝早く起きてやっていました。夏の朝は空が明るくなるのも早く、涼しくて人通りも皆無といっていいので、作業するにはもってこいの時間帯でした。
私がこのような時間に行動するようになったのは、この日記でも書いた、無意味でナイフのように刺さる質問のせい。これを嫌う前は、シカトされる挨拶にも恐怖を感じていました。(信じられないかも知れませんが、私もかつては人に会えば挨拶をする人間だったのです。)それは、私の声がたまたま相手に聞こえていなかっただけなのか、相手が明確な意思をもってして無視したのか…、今となってはもう分かりません。とにかく、挨拶をしても届かない、たとえ返事があっても、そこから「今日お休み?」へと移行する会話パターンに恐れと嫌気を禁じ得ず、人を避けるようになりました。どうあっても自分が傷つくことになるであろうルートしかないと、分かっているからです。
どうしてこうなってしまったのか。今の私がされて嫌な気持ちになるようなことを、過去に私自身が他の誰かにして傷つけていたのでしょうか。それで同じ目に遭って苦しまなければならないということでしょうか。だとしたら、それは他でもない、この私がいつも言っていること。人にしたことは、全て自分に返ってくるのだと。ならば、私は今確かに痛い目を見るべきなのかも知れません。腹立たしいことをされても、「これはかつて私もしたことなのだ」と、その報いを受けているということになるのでしょう。(そうなると、今苦しみを味わうべきは私でも、次に同じ目に遭うのは、まさに私に痛い目を見させた人達…ということになりますが、そこを今ここで話すことはしません。)今はそれを静かに受け入れるしかないです。己を顧みて、慎ましく、質実に生きるしかないです。そのためには、今自分がやるべき目の前のことを堅実にやらなくてはと思いました。それがどんなに小さなことでも、最後までやり抜くしかないと。
だから私は、本当は一歩も出たくない外に出てごみを出し、回覧板を回します。最近は空が明るくなるのがめっきり遅くなり、私が動き出す時間帯はまだ真っ暗です。晴れていれば星がよく見える、そんな空の下を一人歩きます。多くの人が寝静まっているので、私は顔を上げて歩くことができ、きらめく星々や闇に映える月を見ることができます。もし、今私がやるべきこれらのことがなかったら、人を避ける必要もなくわざわざ暗い道を歩く必要もなかったら、星や月が輝くこの美しい夜空を見ることもなかったのかも知れません。そう考えると、悪いことばかりでもないのかな、とも思えてきました。夜空は、私の好きなものの一つでもあるのですから。