夜空の鳥の日記

時にそこはかとなく、時につらつらと

ちょっとした反省

 指の関節をポキポキ鳴らす、人前でこれ見よがしにゲップをする。…これらは私にとって我慢ならない行為ですが、こんな些事にいちいち腹を立てることはやめようと思います。このような悪癖は勇気を振り絞って注意してもまず治らないし、何よりこちらが腹を立てたところで相手のこういった行為がなくなるわけでは決してないからです。対抗してこちらもわざと大きな音を立てて物を置いたり、ぶつくさと小言を口にするのは、自分も相手と同じ土俵に立たせて同レベルのくだらない争いに力を費やすばかりで、ただ余計に疲弊を招くだけです。それは愚か者のすることです。自らを愚者に仕立て上げてはなりません。

今はイラつくのをぐっとこらえ、深呼吸するなり、トイレに行くなどしてその場を離れるなりして、穏便にやり過ごす方法を考えてみるとします。泰然自若、いつも静かに笑っている、そこまで到達するのはさすがに時間が掛かりましょう。ですが、そういう人に私はなりたいです。

どんなに苦手なものも、それを遥かにしのぐほど忌々しい存在が現れれば可愛く見えてしまう

 …可愛いとまではいかなくても、苦手や嫌いという気持ちなど薄れてしまいます。
私は、毛虫や芋虫などうねうねくにゅくにゅした虫が苦手です。でも最近は、毛虫を見てもそんなに驚かなくなりました。きっと毛虫よりもひどく忌み嫌う人があまりにも多いせいでしょう。私は本気で嫌う人が一瞬でも視界に入ると、心臓が口から飛び出るんじゃないかというくらい鼓動が激しくなり、息苦しくなります。心臓に悪いという表現がしっくりくるあの感じです。かつての毛虫に対する反応が、今は心の底から嫌いな人に対して起こっているようです。だから、普段からそういう人をうっかり見ないようにしなければならないのです。
本当は、より嫌いな存在ではなく、好きな存在をもっとたくさん増やしていければいいのだけど。嫌いなものが好きなもので埋もれて見えなくなってしまうほどにね。

がっかり恐怖症

 『がっかり』という言葉におののくようになってしまいました。人からそう言われたことが、思った以上に私を蝕んでいたみたいです。この言葉を聞いただけで、たとえそれが私に向けられたものではないとしても、言い知れぬ恐怖にふるえ上がり、神経がはりつめ、どっと疲れが出てしまう様子。そしてそのような状態になった日は、どうも決まってひどく眠くなります。時間帯も場所も関係なしに、何時間も眠りこけてしまうのです。

 先日この日記にも書いたように、人は過度のプレッシャーに晒されると自分を守るためにあえて脳の働きが鈍くなる、という話を聞いています。もしかしてだけど、私には専門的知識がないのであくまで勝手な考えだけど、この恐怖やストレスを感じた後の猛烈な睡魔も、これ以上自分を傷つけさせまいとして起こる防衛本能なのではないか。これ以上余計なことを考えて自分を追い詰めないように、抗えないほどの眠気に襲わせ昏々と眠らせてしまい、その恐怖やストレス、プレッシャーから離れさせようとしているのかも知れないと。眠い時って、何も考えられなくなるし…。

 誰も助けてなんかくれないけど、「私」だけはいつも私を助けようとしてくれる、そう考えてもいいでしょうか。それにしても、『がっかり』とは、言ってくれますね。おおかた、私があなたの思い通りにならないのが気に入らないだけでしょうに。

自ずと明らかになろう

自分の美点を自ら表に出す必要はないと思う。何も言わなくても、あなたが懸命に力を尽くす姿はきっと見ている人がいるはずだから。逆も然り。悪い行為も絶対誰かに見られている。周りに誰もいないから何をやってもいいと思ったら大間違い。そして自分がした行いは、善いことも悪いことも、必ず自分に返ってくる。それらを人が見ていようと見ていまいと。

訪問営業、販売、勧誘……渾身の力で断る

 心当たりの無い訪問者ばかりが玄関のインターホンを鳴らし、ほとほと手を焼いています。突然家に来て何かを売りつけようとしたり契約させようとする輩です。そういう人らに限って外面だけは良いから余計にタチが悪いです。いかにも人の良さそうな顔をして、こちらの油断を誘おうって魂胆なのでしょう。どんなに愛想よく振る舞っても心が伴わなければ、その笑顔が真実かどうかは自ずと明らかになりますよ。

急に人の家に来て私の生活を強制遮断したあげく、「玄関先までお願いしまぁーす(^^♪)」ですって。 表に出ろと? 人の時間を奪っておきながら、何様のつもりかしら。否。駄目です。嫌です。これ以上話を聞く気はない。とっとと帰って二度と来ないで。邪魔をしないで…などとあらゆる拒絶の言葉が思い浮かびます。でも、こんなふうに思っていることをそのまま言ったら、もしか逆ギレされて車や壁に傷をつけられたりするかも知れない。そんなことになったらもっと困るしこわいので、「いりません」「お断りです」「帰ってください」とだけ毅然と言い切るのが最も間違いが少なそうです。

そもそも私はコミュ障で臆病者なので、色々と撃退台詞を考えても、いざこういう人が現れると手も足も出ず声も震えて、頭の中も真っ白になってしまいます。たとえインターホン越しでも恐怖におののかずにはいられません。私は泰然自若からは程遠い人間なのです。

ですが私が聞きましたところによりますと、人はプレッシャーを感じたりストレスを受けると、思考が停止してしまう場合があるのだそうです。これ以上自分が傷つくのを防ごうと、つまり身を守ろうとしてあえて脳の働きを鈍くするといいます。だから私のこのような反応は、自分で自分を守ろうとするために起こった本能的なものと考えていいみたいです。それならば、いざという時に萎縮して何も言えなくなってしまうことも、恥じる必要はなさそうなのです。

とはいえ、とにかく今は、歓迎しない訪問者に対して「いらないので帰ってください」という一言だけはハッキリキッパリと言えるようになりたいです。正直、郵便や宅配以外は居留守を使いたいところですけれど、応答してみたらそれなりに放っといちゃいけない要件だったってパターンも何度かありましたので、全て居留守にするのは得策ではないのです。近所に引っ越して来ましたって人とか、塀に車ぶつけちゃったんですって人とかね。ここは私の家です。私が守らなければならない、大事な場所なのですから。

『僕はこのようなやからに出会えば、すぐさま青海原に入り桴に乗って帰りたいと思います。』

 正史三国志 杜畿伝より杜恕の言葉。

 自分の知らないところで勝手に旅行を計画されていたら、どう感じるでしょうか。ある日突然届いた、知らない人からのLINEのトーク。こわくて既読にできないでいたら、あれよあれよといううちに見覚えのない名前からのトークがたまっていきます。何のこっちゃと不審に思いつつよくよく確認すると、これまた心当たりのないグループ名。どうやら、私のLINEに友だち登録されている友人の一人が「旅行に行きたい」と言い出し、一緒に行きたい人を集めて勝手にLINEのグループを作った様子。何の一言もなく、私をグループに加えていたのです。

 …ええと、皆と旅行に行きたいというのはあなたの願望ですよね。なぜそのメンバーに私を勝手に加え、それに私が同意している前提になっているのでしょうか。

 私の出不精ぶりは、以前この日記にも書いたことと思います。体調の変化、トイレ、食事、ばかばかしい会話…。心配事があまりに多く、神経は常に引きしぼられた弓のよう。そんな私がどうして好き好んで旅行などに行けますか。まして一緒に暮らしている家族以外の人となれば。誰しもがあなたと同じように「旅行は楽しいもの」と考えているわけではないのですよ。自分が楽しければそれでいいのですか。自分の願望が叶い欲が満たされれば、それに巻き込まれた人がそれによってどんな気持ちになろうとおかまいなしですか。そんなに旅行に行きたければ一人で行くか、その計画に喜んで同意して同じ楽しい気持ちを共有できる人と行けばいいです。

 「私、今度このメンバーで旅行に行きたいんですが、どうですか? もしOKなら、LINEのグループを作ってそこで話し合いたいと思ってるんです。」まず、このような一言があってもよろしいのでは? 誰かと共に何かをしたいと思ったら、まずその相手の都合や意見をうかがうべきだと私は考えます。

 ちなみにそのLINEのグループのトークも、あろうことか私一人だけ置いてけぼりでどんどん話が進んでいく有り様。グループに入れるだけ入れて、あとは放置ですか。私は時間経過でアイテムがたまるスマホの放置ゲームですか。そんなことをしても有益なアイテムなんて何一つ手に入りませんよ。

 この人は、人を見た目や職業で判断するような視野の狭い人ではないと思っていたけれど、もしかして、自分勝手で人の都合を考えられない人でもあるのでしょうか。いずれにせよ、迎合してまで付き合う気はさらさらありません。そいつは無理な相談だとお断りいたしましょう。それで嫌われたって痛くも痒くもないです。人の意見も聞けず受け入れることもできない小さな器、思い通りにならないとへそを曲げる、その程度の人だったというだけのこと。むしろ、そんな人から好かれる方が厄介です。そして、今回のタイトルに引用したものと似たような気分になった次第です。『彼らの間で調子を合わせることはできません。』

私を守るもの

何度も言うようだけど、気に入ったゲームを何回もプレイするタイプだ。気に入った映画やアニメも何回見たって楽しめた。気に入った本や漫画も何回読み返したことだろう。正直に言って、これらは同じことの繰り返し。どんな展開が来てどんな結末になるか、全て分かりきっている。それなのに、どうして初めて出会ったあの時と同じ気持ちのままで、何回でも楽しむことが出来るのだろうか。

それはこの心が、何度も何度も、幸せで満ち足りた気持ちになろうとしているからではないか。無意識に、自分で自分を幸せにしようとしているのではないかと思う。

逆に、嫌な記憶というのは、現実でも虚構でもどんなに忘れたくても忘れられない。でもそれは、同じ過ちを犯すまいとして、再び忌々しい記憶が刻みつけられるのを、無意識に防ごうとしているからなのかも知れない。

いずれにしても、この心が無意識に自分のために動いているようだ。私の心(と、プレイするたび私を笑顔にさせてくれるゲームの人々)が、私を守っているのだ。